久しぶりに古いメモ帳を開いてみた。
これは、定年間もない頃のものだ。
ゴールデンウイーク最後の昼下がり、午後の紅茶をすすりながら、久しぶりにゆっくりと新聞の文化面などを拡げてみる。
俳壇・歌壇で最初に目を通すのは、同名のよしみで、決まって高野公彦選による短歌の数々である。
早く死ぬほうが勝ちだと語り合う
妻と二人のお茶のひととき
まるで我が家のキッチンの会話のようでもある。
茶飲み話であるのが救い。そんな年になったなあーと、しみじみ納得。
遠き日に蝙蝠(こうもり)の空に投げし石
戻らぬままに六十路の夕暮れ
これも同世代の歌。
たしかそんな頃もありました。少年の日…。
今日ひと日歩いてくれてありがとう
一本一本足の指撫づ
歩くのは足だが、その指の力も大いに預かっている。
そんな素直な気持ちになれる心のゆとりを常日ごろから持っていたいもの。
次の歌は我が故郷の人のようだ。
沖がかりする船見えぬ七尾港
広きのみにて賑わいの無く
沖がかり[沖繋・沖掛]とは、沖合いに船を停泊させること。
長年国際航路に乗っていた従兄弟が引退後は地元に帰り時折り七尾港の水先案内をしてい るという。この港はかつてロシアとの貿易港として賑わってきたが、両国とも経済状態が低迷する今、船舶の行き来も途絶えがちだと嘆いていた。
*3月末に能登半島を襲った地震では、幸い七尾にいる親戚、知人に大きな被害はなかったが、仮設住宅暮らしを余儀なくされている多くの高齢の人たちが気にかかる。
隣りの俳壇ではこんな句が目にとまった。
お出しするだけの雛となりにけり
行く春の君にはそれが見えないか
脇役に徹すべし薔薇ひらくべし
<2000.5月 朝日歌壇・俳壇より>